
TBSテレビに眠っていた膨大な美術写真。懐かしいテレビドラマや「ザ・ベストテン」などのスタジオセットの記録用の他、セット制作のための資料用など実に25万点にのぼる。去年デジタルアーカイブ化の作業が終わり、その一部が一般公開されることになったのを機に、担当者3人がリレー形式でその意義を語る。まずは、TBSヴィンテージクラシックスの小島英人から。
TBS美術部にはかつて美術セットをつくらない部員がいた
TBSテレビが開局したのは今から70年前の昭和30年4月1日、戦後10年で、占領がとけてから3年も経っていない頃です。まだ行く末の見えないベンチャーな新興メディアとしてスタートし、ラジオや映画や演劇など先行する表現文化をふまえながら、新しいテレビの映像表現を模索していきました。
テレビを創っていった主役と言うと、スターやタレント、脚本家、プロデューサーやディレクターとなりますが、「テレビ美術」の存在はあまり顧みられることがありません。
しかし、番組を番組たらしめるそもそものセットや舞台をつくりあげる美術は、実はテレビの知られざる創造主です。セットの力が、出演者の演技や歌唱を引き立て、セットの説得力が人々を物語にいざない、ひとときの夢を見させてくれました。
昭和31年秋に部となったTBS美術部は、「美術セットの記録」を部の職掌としました。
初代の「美術写真係」となったのは23歳の美術部員、後藤貞雄。彼はその後、美術セットの制作には携わらず、スタジオセットや屋外のロケ写真を撮影し続けました。二代目の山口征彦とあわせて、実に25万枚の写真を遺したのです。
今世紀に入って間もなく、当時のTBS美術デザイン部長が頭を悩ましたのが、「写真係」が撮影した膨大な写真群の扱いでした。そこから気が遠くなるような作業がスタート。デジタル時代の新たな資料として生まれ変わるまで20年余りを要することになります。
おしまいに、冒頭の写真について。
これは、1957年(昭和32年)のテレビドラマ「赤胴鈴之助」のセット記録用の写真です(マイクやセットの端が映りこんでいます)。写真群整理中の去年、67年ぶりにこの写真のネガが発掘されました。
真ん中に立っているのが、鈴之助役の尾上松助さん(尾上松也さんの父)。そして、その左に座る着物姿の少女は吉永小百合さんです。当時12歳で、俳優デビューを飾ったテレビ初出演の記念すべきドラマでした。
吉永さんは、「確かに私です」と確認した上で、「あまり覚えていませんが、なんだか懐かしいですね」とコメントされています。
ではここで、元TBSテレビ美術デザイン部長の橘野永に筆をバトンタッチします。
段ボール箱の写真たちを「何とかしたい」
2003年ごろ、美術デザイン部長だった私はTBSの緑山倉庫に未整理のまま雑然と段ボールに放りこまれていたネガや写真が気になって仕方がなかった。スクラップブックに貼られた写真アルバムも多数あった。テレビ草創期から、TBS美術部の写真班撮影班が記録し続けた写真群だ。それらをまず赤坂に移送した。
写真にはほとんどメタデータというものがなかった。ネガケースに撮影か現像の日付と番組名が書きなぐってあるばかりであった。仕事の合間にまず整理をはじめた。その日付をもとに年代別に仕分けた。それらは美術部の大きなロッカーキャビネット10台分にもなった。
私にとってこれらの写真たちは、思入れのある大切なものだった。現代は、インターネットが普及して、必要な情報や画像を参考にできるようになったが、それ以前は、参考資料というものがあまりなかった。
私は1982年に入社し、担当した「週刊欽曜日」、「たけしのお笑いサドンデス」などバラエティ番組でコントセットのデザインに追われていた。神社・公園・レストラン・学校・工事現場・病院・職業安定所などありとあらゆるシーンがコントの舞台になる。それらをセットにしなければならない。しかも発注まで時間がない。そんな中で、ジャンルごとに分類された写真アルバムが大いに役に立った。
様々なシーンのデザインを考える際、美術部写真は仕事のパートナーとして欠かすことができないものであった。しかし、これらもインターネットの普及で不必要となった。指先ひとつでなんでも調べることができる。会社の限りあるスペースの問題で、役目を終えた写真群はいずれ廃棄されるだろう。私が会社にいる間に、なんとかして保存しておきたいと念じていた。
「デジタル化」という名の膨大な手作業
2018年、定年まであと2年となり、私は一線から退き、時間に余裕が生まれた。その頃、会社に性能のよいスキャナーも入った。ここから写真群のデジタル化の取り組みをはじめた。
膨大な写真群だった。ネガ・プリント合わせて、ロケハンや資料写真が14万枚あった。テレビセットを中心とした制作現場の写真が11万枚あった。
36枚撮りのフィルムネガが多かった。それらをケースから取り出し、一コマ一コマをスキャンしていく。アルバムに貼られた写真も同じようにスキャンする。手間がかかり、根気のいる作業だった。
写真群には私が魅入られた“原点”のセットも
25万枚の中で私にとって特に興味があったのは大先輩、三原康博さんのセットデザインであった。三原さんは1937年生まれ。東京芸大美術学部を卒業し、1961年にTBSに入社した。1974年からの「サウンド・イン“S”」は学生の時分、テレビをみていて魅了された。そんな憧れからTBSの門を叩いたのだった。
入社後、念願がかなった。美術セットの花である華やかな音楽番組のセットを担当させてもらった。
三原さんは「ザ・ベストテン」の立ち上げから10年間、担当した。私は三原さんのセットデザインに魅了され、セットデザインの奥深さにハマった。私は三原康博さんのセットデザインの詳細とそのルーツ、さらにテレビ草創期に活躍した重鎮たちのセットデザインにも興味を持ち、今回のアーカイブ作業では念入りに整理している。
私は、音楽番組とは別に多くのバラエティのセットも手掛けた。そのデザインは楽しいものだった。
子どものこころで夢の世界をつくった。それは、TBS緑山スタジオが開業してから5年目にあたる1986年、2万3000坪の敷地に総工費1億円をかけて“築城”された「風雲!たけし城」のオープンセットである。
「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」は、当時流行していたファミコンゲームが発想の原点にあり、生身の人間が広大なオープンロケ地に設けられた様々なアトラクションセットでそれを体験するというもので、TBS始まって以来過去に例を見ないスケールの番組だった。
緑山のオープンロケ地は、起伏に富んだ丘、緑あふれる森に囲まれた原野であり、自然豊かでワイルドな雰囲気が溢れていた。
そこにアトラクションを配置して、敷地全体のマップをイメージしたものが下の水彩画である。スタジオセットとは異なるスケール、自然との融合、また明るく楽しくバカバカしい雰囲気が全体的な世界観として表現できればと思い描いた。写真ではないが、こちらも美術セット史を振り返るにあたって貴重な資料だと言えるだろう。
デジタルアーカイブよ、新しい創作の糧となれ
美術部にはそれら60年ほど前の重鎮たちのセット写真がネガフィルムの状態で大量に残っており、ネガスキャナーにかけて中身を確認するとクオリティーの高いセットデザインの数々が鮮明な画質の状態で見えてきた。
重鎮たちの若かりし頃の試行錯誤、躍動的なセットの数々、映り込んだ出演者、スタッフたちの汗。私は大いに感動を覚えた。
とりあえず大まかな写真群の分類は終わった。実は、写真一枚一枚の確認とメタデータの付与という作業はまだ完成していないが、それでも、テレビ美術が記録した写真はデジタル化され、社内で社員の誰もが指先ひとつでアクセスし、閲覧できるようになった。
先人たちの資料が新たな創造の糧やアイデアの源泉となる体制は整った。歴史が新しい未来を創っていくことを希望してやまない。
では、最後に、デジタルアーカイブの制作にあたったTBSテレビ・デザインセンターの石井健将に筆を譲る。
25万枚を閲覧できるデジタルの「アーカイブミュージアム」を構築
TBSグループでは「デザインセンター過去アーカイブミュージアム」を2024年暮れに開設しました。これはTBSテレビ開局の直後から、1997年ごろまで、当時のTBS美術部(現TBSテレビ・デザインセンター)が撮影した写真群25万枚のデジタル・アーカイブサイトです。
膨大な写真群を6年以上かけて、こつこつと一枚一枚スキャナーにかけてデジタルファイル化し、年代、番組、テーマ、場所、イベントなどに分類整理しました。これらをまずTBSグループ内で公開し、分類に従って、閲覧ができるようにしました。第一層で90類、第二層から第四層までそれぞれに細かい分類となっています。
写真は、TBSの社員が業務として撮影したものであり、写真の著作権、所有権はTBSが保有しています。しかし、スタジオの写真にはスター、タレントのリハーサル中などのオフショットが多数あり、公開にあたっては許諾を要する場合もあり得ます。そのため、まずは社内の閲覧サイトとしました。
「ザ・ベストテン」の楽曲リハーサル写真はすべて網羅
写真の具体例ですが、例えば「ザ・ベストテン」についてはすべてのスタジオ歌唱楽曲のリハーサル写真があります。それらは「セット写真」の類にあり、1979年から1989年までの番組の放送期間の年度ごとにまとめられています。
例えば1980年の山口百恵の「謝肉祭」であれば「ザ・ベストテン、1980年」の第二類から、さらに第三類の「5月8日ザ・ベストテン」を開くと、代役によるカメラリハーサルの写真を閲覧することができます。
こうしたテレビスタジオでの撮影写真は草創期には特に重要です。ビデオが放送界で広く活用されるようになるのは1960年代後半からで、それまでの10数年は原則生放送です。
初期の有名な番組も映像がなく、忘れられた存在になっているものも少なくありません。
例えば日本ではじめての実写版「サザエさん」はこれまで写真記録がほとんどなく、あまり知られていません。今回の「デザインセンター過去アーカイブ」には記念すべき実写「サザエさん」の写真もあり、当時のほのぼのとした雰囲気を感じ取ることができます。
15万枚の屋外ロケ写真は失われた風景を記録
25万の写真はおよそ10万枚がスタジオでの撮影写真です。実は、それより数が多い15万枚は社外でのロケ写真です。インターネット普及以前は、セット作成のための資料は実際に屋外で撮影しないと細部がわからないという事情がありました。そのために森羅万象、全国津々浦々の昭和の記録が残っています。
例えば、去年のドラマで話題になった昭和の「炭鉱」の写真を見たいとします。「海に眠るダイヤモンド」の製作班はこうした資料写真をあちこちに求めたことでしょう。
「過去アーカイブミュージアム」には参考になる写真があります。第一類の「炭鉱、採石場、石切り場」を開きますと、北は北海道から南は九州までの炭鉱のファイル群があらわれます。その中に、軍艦島の写真はあるでしょうか。残念ながら、それはありませんでしたが、同じ「長崎県平戸」の写真がありました。平戸の高島炭鉱は軍艦島とならぶ有数の炭鉱でした。
「海に眠るダイヤモンド」は昭和30年からの軍艦島を舞台にしていました。昭和30年代の炭鉱労働の様子はないかと探しますとこの「過去アーカイブ」から次のような写真をみつけることができます。
昭和35年の常磐炭鉱です。映画の「フラガール」で有名な炭鉱です。現在はスパリゾートハワイアンズと姿を変えました。当時は女性たちが石炭の選別か何をしていたようです。ドラマでは採石は男の仕事でしたが、女性たちのこうした仕事もあったことがわかります。
厳選した写真を初の一般公開へ
前述しましたようにこれらの貴重な写真をまずはグループ社内でのインナー公開いたしました。しかし、それだけではもったいない貴重な写真、興味深い写真ばかりです。
アーカイブ価値の社会発信を営む「TBSヴィンテージクラシックス」が、25万枚の一部だけでも多くの人に見ていただきたいという思いから写真展を企画しました。
「TBS美術部アーカイブ25万枚から見えるもの~テレビ文化とは何だったのか?~」と題した写真展です。50枚ほどの写真を厳選します。どれもこれまで未公開の写真です。
写真は美術部の目線で撮影した写真であり、テレビ画面とは異なるサイズであり、周囲の現場の様子が映りこんでいます。これらを昭和の時代の変遷とTBS史のなかに写真を位置づけ「テレビのあけぼの」「テレビの青春」「テレビの真夏」「テレビ文化とは」の4つのコーナーにわけて展示いたします。
折しもTBSテレビは今年4月1日で開局70周年となりますが、その約一週間前、3月26日からTBS赤坂BLITZスタジオのホワイエ3階通路で開催いたします。無料です。どうぞ昭和のテレビの現場への小さな旅をお楽しみください。
〈執筆者略歴〉
小島 英人(こじま・ひでと)
TBSヴィンテージクラシックス
1960年 東京生まれ。東大法学部、NYU映画研究学科大学院卒。
1983年 TBS入社。「報道特集」を10年間制作。ドキュメンタリー枠「報道の魂」の立ち上げに携わる。
2013年 「TBSヴィンテージクラシックス」を創設し、、音声、映像などの「放送遺産」を発掘し、発信している。
2016年 CD8枚組「戦後作曲家集成」で第54回レコードアカデミー賞特別賞、2019年「三島由紀夫VS東大全共闘」企画報道でギャラクシー賞月間賞。2020年、同企画は同名の映画となる。
橘野 永(きつの・ひさし)
1959年 東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。
1982年 TBS入社。「週刊欽曜日(欽は〇囲み)」、「風雲!たけし城」などで夢とぬくもりのあるセットに定評があった。美術デザイン部長などをつとめ2019年定年退職。その後も、去年まで「美術部写真アーカイブ」の整理を続けた。
石井 健将(いしい・たかゆき)
2005年 TBS入社。バラエティ、音楽番組、ドラマなどの美術デザイナー、プロデューサーを経て現在はデザインマネジメント職としてグループ内のさまざまな企画に従事。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。
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