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中国残留孤児の80年 「二つの祖国に感謝を」

海外
2025-10-06 06:00

終戦直後の混乱の中、中国に取り残された日本の子どもたちがいました。中国と、日本。二つの祖国を持つ彼らが今、伝えたいこととは。


【写真で見る】中国残留孤児の80年「二つの祖国に感謝を」


戦後の混乱の中、家族と離れ離れに...「中国残留孤児」とは

9月10日。中国東北部にある黒竜江省ハルビン市の空港にひとりの男性の姿がありました。宇都宮孝良さん(82)です。     


宇都宮孝良さん
「5年ぶりに来ることができてとてもうれしいです。家に帰ってきたような気持ちがします」


宇都宮さんは中国で育ったいわゆる「残留孤児」です。今回、残留孤児の仲間や家族など約90人とともに中国を訪れました。空港には中国側の支援者が「お帰りなさい」の旗をもって、彼らを歓迎しました。


宇都宮孝良さん
「私は40年以上、中国で養父母に育てられ、幸せな日々を過ごしました。養父母に大切に育ててもらったことは、一生忘れません」


1932年、日本は現在の中国東北部に「満州国(まんしゅうこく)」という傀儡国家を作りました。広い農地や仕事を求め、多くの日本人が満州にわたりましたが敗戦とともに、苦難の道をたどることになります。人々は侵攻してきたソ連軍に追われ、まさに着の身着のまま、時には徒歩で、日本を目指しました。その混乱の中、多くの子どもが中国人に引き取られる形で中国に残されたのです。彼らは「残留孤児」と呼ばれ、日本政府が認定しているだけでも2818人にのぼります。


「行きなさい」 忘れられない母との別れ

愛媛県で生まれた宇都宮さんは両親に連れられ1943年、満州にわたりました。農業を営んでいた両親の姿、藁ぶき屋根の家…覚えていることはわずかです。終戦後、母や姉とともに貨物列車に乗り、日本へ向かう途中、黒竜江省佳木斯(ジャムス)市の難民収容所に収容されました。しかし母は腸チフスにかかり、寝たきりになってしまいます。そこに現れたのが宇都宮さんの養父母となる中国人夫婦でした。


宇都宮孝良さん
「母親は板のベッドに横たわり、起き上がることができませんでした。私に手を振って『行きなさい』と合図したのを覚えています。とても鮮明に。12歳だった姉も一緒に行きたいといいましたが、養父が『男の子が欲しい。女の子は要らない』と言ったので、一緒に行けませんでした」


それが、家族との別れでした。


宇都宮さんは3歳。覚えているたったひとつの日本語。それは「おかあちゃん」という言葉でした。


農業を営む養父母は決して裕福ではありませんでしたが、宇都宮さんを大事に育ててくれました。収容所で骨と皮だけになっていた宇都宮さんに毎日牛乳を飲ませ、体力をつけてくれました。


宇都宮孝良さん
「養父母は、私を実の息子のように扱ってくれました。おいしいものはいつも私に先に食べさせてくれました。冬には寒くないよう綿の入った服を着せてくれ、本当の親のように気遣ってくれました。だから私は一生、養父母への感謝の気持ちと彼らへの忘れられない思いを抱き続けているのです」


「日本の子だ」といわれるのがとても怖かった

自分が日本人だということは知っていたという宇都宮さん。日本人だという理由で近所の人から罵られたこともあったといいます。


宇都宮孝良さん
「中国人は日本人を憎んでいました。誰かに『日本の子だ』といわれるのがとても怖かったです」


そんな時、いつも養父母は「私たちが本当の親だ」とかばってくれました。 


日本と中国が国交を回復してから9年後の1981年、宇都宮さんはようやく肉親を捜しに日本を訪れることができました。残念ながら両親は亡くなっていましたが、難民収容所で一緒だった人が宇都宮さん一家のことを覚えていたのです。本当の名前が「宇都宮孝良」であることもわかりました。1985年に日本国籍を取得。中国で行っていた列車修理の仕事の経験を活かし、日本でも鉄道関係の仕事に就きました。家族とともに今は日本で暮らしています。


宇都宮孝良さん
「自分の本当の名前がわかった時はうれしかったです。日本の環境にはすぐ慣れましたが、言葉が障壁となり、最初は戸惑いました」


「私にはふたつの家がある」残留孤児たちが伝えたいこと

今回、宇都宮さんは残留孤児の仲間とともに自分たちを育ててくれた中国への感謝の気持ちを伝える交流会に参加。黒竜江外国語学院で、両親と離れ離れになった経緯を描いた劇や歌を披露しました。


残留孤児を代表してあいさつをした池田澄江さんは次のように学生たちに語りかけました。


池田澄江さん
「私たちは日本の血をひいていますが、中国の大地に根を張って育ちました。ここは私たちの第二の故郷であり、切り離すことができない青春の記憶と恩恵があります。私たちの歩んだ特別な人生の軌跡が、私たちに日本と中国に対する極めて深く複雑な感情を抱かせると同時に、誰よりも平和の尊さと友好の重みを深く理解させてくれました」


そのうえで、外国語を学ぶ学生たちにこうよびかけました。


池田澄江さん
「『歴史の負の遺産は後世の人たちが負うべきではない』という人もいますが、歴史の教訓は必ず記憶されなくてはなりません。特に若い人たちが歴史を教訓とし、未来に向かうことを願います。外国語は世界をつなぎ、国境を越え、相互理解を深める懸け橋になります。どうぞ、中日間の交流を促進する懸け橋となってください」


劇を見た大学生
「中国の日本人は全員帰国したと思っていたので残留孤児について知った時は衝撃を受けました。戦争は確かに日本人への憎しみの感情をもたらしました。しかし残された子どもに罪はありません。彼らには同情します」


劇をみた大学生
「劇を通じて残留孤児についてよく理解できました。非常に衝撃的な内容でした。中国と日本は平和に共存してほしいと思います。交流を通じてともに発展していけるはずです」


最後に全員で合唱したのは「我有两个家(私にはふたつの家がある)」。


♪ 私にはふたつの家がある。祖国に戻っても中国の家は忘れない。夢の中で泣きながら中国のお母さんを呼んでいます


戦後80年。残留孤児たちも高齢化が進み、訪中は今回が最後になるといわれています。


宇都宮孝良さん
「日本が戦争を起こさなければ私たちもこのような悲劇にあうこともなく、家族が離散することもなかったでしょう。私にはふたつの故郷があります。ひとつは日本。ひとつは中国です。中国の人たちが私たちに示してくれた恩恵は本当に忘れません。私たちは日本と中国の懸け橋となり、絆となるべき存在です。これからも日中関係が友好的に発展することを心から願っています」


取材 JNN北京支局長 立山芽以子


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