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近藤亮太が2時間05分39秒の初マラソン日本最高!東京2025世界陸上代表候補に突如躍り出た理由とは?【大阪マラソン2025】

スポーツ
2025-02-26 13:39

初マラソンで近藤亮太(25、三菱重工)が日本人トップの2位と健闘し、9月開催の東京2025世界陸上代表候補に躍り出た。大阪マラソン2025は2月24日、大阪府庁前をスタートし大阪城公園内にフィニッシュする42.195kmのコースで、東京2025世界陸上選考会を兼ねて行われた。優勝はイフニリング・アダン(28、エチオピア)で、近藤とのデッドヒートを2秒差の2時間05分37秒で制した。近藤は2時間05分39秒の日本歴代5位、初マラソンの日本最高記録だった。


細谷恭平(29、黒崎播磨)も2時間05分58秒と日本歴代7位の好記録。日本人3位、全体6位の黒田朝日(20、青学大)が2時間06分05秒の学生新。菊地駿弥(26、中国電力)、鈴木健吾(29、富士通)、柏優吾(24、コニカミノルタ)も含めた日本人6選手が東京2025世界陸上参加標準記録(2時間06分30秒)を突破した。


史上初のニューイヤー駅伝に出ていない2時間5分台選手

最終的には3月2日の東京マラソンの結果によって変わってくるが、近藤は大阪マラソン終了時点で世界陸上代表3枠の圏内にいる。だが近藤は、世界陸上代表まで意識してレースに臨んではいなかった。「タイムは2時間08分00秒が目標でした。それとは別にテーマとして、30kmまで余裕を持ち、最後まで体の軸をぶらさずに走ることを考えていました。30kmまで先頭集団に付くことができれば、そこから足が止まっても2時間8分は出せる」そう考えて走った結果が2時間05分39秒である。


近藤は入社3年目だがニューイヤー駅伝には一度も出場していない。同駅伝の経験がない実業団選手がマラソンで2時間7分未満の記録を出したのは史上初めてだ。普通では考えられないことを近藤は実現させた。


三菱重工は黒木純監督(現総監督)の指導のもと、この10年でニューイヤー駅伝入賞常連チームに成長した。主要区間の選手は日本トップレベルだが、近藤は1年目の終わりの全日本実業団ハーフマラソンで、チーム最高記録(1時間00分32秒)で日本人トップの3位になった。メンバー入りする力はあったはずだ。


3年目は足底の痛みの対策として10月の約3週間を休養に充てたことが理由だが1、2年目のメンバー漏れは「戦うぞ、という気持ちを出せていなかった」と近藤は自己分析している。最終的にはメンタルということになるのかもしれないが、「普段の練習でも力みが出ることがありましたし、特に試合では“やるぞ”という気持ちが強く、上半身に力が入ってしまう」ことも要因だった。力を入れようとすると走りが崩れ、メンバーを決める重要な練習でスタッフの信頼を勝ち取ることができなかった。


順天堂大学時代もそうだったようで「練習では強い」と言われながら3年生までは箱根駅伝に出場できなかった。4年生になってアンカーの10区を任され、チームとしては2位と好成績でフィニッシュしたが、近藤の区間順位は14位と振るわなかった。それでも「入社後は年に1回良い走りができていた」という。1年目は前述の全日本実業団ハーフマラソン、2年目は10000mで自己記録を35秒更新した11月の佐賀県長距離記録会(28分16秒14)。そして3年目が今回の大阪マラソンである。「1年に一度、自分でもビックリします」しかし今回は、快走する手応えも感じて臨んでいた点が、過去2年とは大きく違っていた。


ニュージーランド合宿で得られた手応え

その手応えを得たのは、ニュージーランド合宿中の1月22日だった。大阪マラソンに一緒に出場した定方俊樹(32、三菱重工)と「6回の40km走の最後の1本」を行っていた。定方は12回のマラソン歴があり、2時間7分台で2回、8分台も2回走った選手。「定方さんに全部引っ張ってもらって、後ろで走らせていただきましたが、その中で余裕を持つマラソンの走り方を、いかに楽に走るかをつかむきっかけがあったんです」


それまでは前を走る選手の首や背中の上部、さらにはコースの前方を見ていた。それを定方の「お尻を見ること」に変更した。走る前から考えていたわけではなく、力を使わない走り方をしようと集中した結果、視線が自然と先輩のお尻に行った。「お尻を見ることで上半身が前傾できて、軸がぶれなくなって楽に走ることができました。他のことを考えずに、1m先のお尻だけを見て、脚の動きと自分のリズムを上げ下げできた。気づいたらラスト5kmになっていて、黒木総監督からも『これでいいんだよ』と言っていただけた。この感じ、リズムで走ればいいのだと自信を持てましたね」


中学時代から長い距離の方が強く、「800 m、1500mで勝てない相手に、3000mでは勝つことができました。距離が延びれば勝てる。安直に一番長い距離のマラソンをやろう」と
当時から考えていた。「謎の自信がありました」と笑うが、おそらく速く走ろうと考えると、上半身が起きたフォームになり力みが出やすかったのだろう。「長い距離で遅めのペースなら、楽に走ることができていました。しかし1km3分ちょっと、3分を切るようなペースになるとその走り方ができませんでした」


入社1年目の全日本実業団ハーフマラソンは「初めて時計を付けずに走ったレース」だった。「自分の走りとリズムに集中」ができた。当時はそれが理由と特定できなかったが、結果的に楽になる前傾したフォームになっていた可能性が高い。入社2年目の10000mの大幅自己新は、今思えば「たぶん何も考えずに、ペースメーカーのお尻を見ていた」のだと推測している。「どう力を使ったら楽に走れるフォームになるかわからなかったのですが、力を抜いたらいいのだとニュージーランドの40km走で気づきました。その後はスピードの速いメニューでも、その走りができるようになった」


大阪マラソンでも時計は付けず、集団のリズムに合わせることで楽に走ることに集中した。定方をはじめ、細谷や小山のお尻を見て、「ペースメーカーの細かい上げ下げに左右されずに走れた」という。30km過ぎの折り返しの誘導ミスも、「まったく気づかないくらいに集中」していた。


同一チームから2時間5分台2人目は史上初

三菱重工は現監督の松村康平が14年東京マラソンで、初めて2時間10分を破る2時間08分09秒をマーク。当時の日本ではレベルの高い記録で、同年の仁川アジア大会代表入り。銀メダルを獲得した。


井上大仁(32)は17年のロンドン世界陸上代表入りすると、18年東京マラソンで2時間06分54秒をマーク。同年のアジア大会で日本勢32年ぶりの金メダルを獲得した。定方は2時間7分台が今回の大阪で3回目。日本代表として23年アジア大会(4位)を走った。そして山下一貴(27)は23年東京マラソンで2時間05分51秒(当時日本歴代3位)をマークし、同年のブダペスト世界陸上11位。終盤で痙攣を起こして後退したが40km地点までは5位を走っていたし、38km地点では3位の選手と17秒差だった。


長崎県で生まれ育った近藤は、三菱重工選手たちの活躍を見て育った。大学3年時の3月に三菱重工の合宿に参加し、22年に入社。2年目に初マラソンを2時間8分前後で走り、2回目のマラソンで代表入り、28年のオリンピックでのメダルを獲得する。そんなロードマップを想定していた。山下のブダペスト世界陸上は入社2年目で、「世界のメダルは遠くない」と意を強くした。


初マラソンは自身の希望より1年遅れたが、三菱重工では練習の状況、トラックのタイムなどをもとに、体力や走力を総合的に判断してマラソン出場に踏み切る。松村以外は長崎県出身。井上は全日本大学駅伝2区区間賞や関東インカレ・ハーフマラソン優勝と学生時代にタイトルを取った選手だが、その他の4人は全国的に注目される戦績は残していなかった。三菱重工の育成力には目を見張るものがある。


育成力として一番大きいのは黒木純総監督の存在だ。若くして監督になり、選手の動きをよく観察し、的確な言葉でアドバイスをする。ニュージーランドの40km走で近藤に掛けた言葉も、簡潔だったが近藤にとっては効果が大きかった。「厳しい言葉ではなく、何気ないひと言だったりしますが、受け取る側が自分の中に落とし込むことができます。方向性を決められる言葉ですね」


練習を簡単に変更しないことも特徴だ。近藤は「一貫している。妥協しない」という印象を受けたという。「目標に対して甘さを持たず、何をやらないといけないか、突き詰めて考えていきます。徹底していますね。陸上競技中心の生活をする雰囲気があります」


選手同士の会話もお互いのヒントになっている。黒木総監督は「以前はこの練習をやればいい、という取り組み方でしたが、井上や山下が世界で戦っていく過程で、こういう感じでやればいい、と練習の行い方の精度が上がってきました」と見ている。「近藤たちが入社した頃には、色々な情報が知識としてチームの中に蓄積していました。選手たち自身が考えて、この練習は体のどこを使っているかとか、今日は蹴りがどうだったとか、この感覚でこの練習ができれば次につながっていくとか、会話ができています。選手同士が話し合って感性を磨き合っている。競技の話ができるチームは強いと思います。生活がストレスなく競技になっていますから」


その環境の中で近藤は楽な走り方に気づいた。山下が世界陸上で痙攣したことから、大阪マラソンでは給水をエネルギー系とミネラル系を交互に置き、35kmではミネラル系の給水をしたことで痙攣の悪化を防いだ。定方から「マラソンは苦しくても、楽になるタイミングが必ずある」と何度も聞き、それを信じて初マラソンを走ることができた。


近藤自身は大学までこれという実績を残せなかったが、「小さな感覚、小さな成果を大事にして来た」という。そういう努力をずっと続けてきたからこそ、ニュージーランドの40km走で気づくことができた。そんな選手が三菱重工という環境に入ることで、大きな成長を遂げた。ニューイヤー駅伝に出場していない近藤の初マラソン日本最高は、普通では考えられないことだが、三菱重工から育つことは十分あり得ることだ。2時間5分台選手を初めて、チームで2人も輩出した三菱重工というチームなら。


(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)


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