
震度7の揺れに2度見舞われた熊本地震についてです。
【写真を見る】「動かせない、でも守れない」入院患者全員避難の舞台裏
倒壊のおそれから、入院患者全員を避難させた病院があります。「あのとき何ができたのか?」発生から10年経った今、医師たちが明かす、激しい葛藤です。
「退院したら一緒に遊ぼうね」入院中の娘を襲った熊本地震
ぽっかりと空いた土地がある。10年前、ここに熊本市民病院があった。310人が入院していた病棟は今はもうない。
この場所にくると、入院していた娘との日々がよみがえるというのは、宮崎さくらさん(47)だ。
宮崎さくらさん
「待合室で待ってる姿とかね。アイス食べて帰ってたりしたので」
さくらさんの次女・花梨ちゃんは、10年前の熊本地震で亡くなった。4歳だった。
花梨ちゃんは、生まれつき心臓に重い病気を抱えていた。そのため、専門的な治療を受けられる熊本市民病院に入院していた。
手術をひとつひとつ乗り越え、幼稚園に通うのを楽しみにしていたという。
宮崎さくらさん
「お姉ちゃんの乗るバス停に一緒に行って見送りをしていたんですけど、自分と同い年の子が(バスに)乗っていきますから。じーっと見てるときがあって『手術が終わったら行けるからね』と言ったら『うん』って。楽しみにしてましたから」
地震の3か月前、手術を控えた花梨ちゃんから、病院で会えない2つ上の姉に向けたメッセージがある。
「退院したら一緒に遊ぼうね」
「おもちゃでいっぱい遊ぼうね」
手術の後、容態は安定しなかった。
集中治療室で治療を続けていた時だった。2016年4月14日と16日。最大震度7の揺れを2度、観測した。
熊本地震ではあわせて19万棟を超える建物が、大きな被害を受けた。花梨ちゃんが入院していた市民病院は、2度の揺れで柱や壁に亀裂が入り、天井の一部が落ちた。
さらに、医療に必要な水を貯めていた受水槽が壊れ、治療を続けられない状況に陥った。
市民病院は、国の耐震基準を満たしていなかったため、建て替えが検討されていた。しかし、資材高騰などを理由に、地震の1年前に建て替え計画が凍結となっていた。
地震直後、さくらさんの耳に入ってきたのは、「市民病院に倒壊のおそれ」というニュースだった。
宮崎さくらさん
「とにかく花梨が無事なのか、ベッドから落ちたんじゃないのか、何か医療器具が止まって治療が止まっているとか、本当に色々なことを考えて。ただ自分たちもどうしようもない、状況が全く分からない」
病院からは、入院患者310人全員を避難させなければならない状況だと告げられた。しかし、花梨ちゃんは、少しの移動にも命の危険が伴う絶対安静の状態だった。
宮崎さくらさん
「絶対動かしたらいかん、絶対無理だと(家族)みんなでなって。『可能な限りそこで治療を続けてください』と」
そんな中、強い余震が続いた。最終的にさくらさん家族は転院に同意した。
宮崎さくらさん
「そこにいれば花梨ももちろん、先生たちや看護師さんたちみんなが危ない。今一番必要なのは、みんなが避難すること」
医療機器がつながった状態の花梨ちゃんは、専門的な治療ができる約100キロ離れた福岡の病院に向かった。家族と離れ、救急車で通常の倍、3時間ほどかかったという。遅れて到着したさくらさんが見たのは、ひどくむくみ、容態の悪化した花梨ちゃんだった。
宮崎さくらさん
「同じ搬送前の花梨とは思えないぐらい、今までで一番ひどい状態。私から見ても一目瞭然」
花梨ちゃんは、本震から5日後の4月21日に亡くなった。
宮崎さくらさん
「もし地震がなかったら、転院がなかったら、いずれそうだったかもしれないけど、21日ではなかったはず」
さくらさんは地震から約3か月後、災害関連死の申請を行った。そこに込めた思いは…
宮崎さくらさん
「申請をするということは花梨のことを知ってもらって、当時すごく頑張ったことを知ってもらうことで、花梨は病気に負けたんじゃない、地震があったから亡くなったということを認めてもらう。花梨が生きた証として申請しよう」
その翌月、花梨ちゃんは、災害関連死に認定された。
310人の入院患者を抱え、倒壊の恐れに直面した熊本市民病院。医師たちも難しい判断を迫られていた。
“これで良かったのだろうか” 患者全員避難 医師の葛藤
2度目の最大震度7を観測した2016年4月16日未明。熊本市民病院の様子をカメラがとらえていた。
日下部キャスター(2016年4月16日)
「熊本市内にある市民病院ですけれども、この建物が倒壊するおそれもあるということで、入院している患者さんを別の場所に移送する準備が進められています」
熊本市民病院 当時の総務課長
「倒れたりとか、ガラスが割れたりとかしてますので、今は全員患者さんを1階におろしています」
この時、病院はかつてない判断を迫られていた。当時、市民病院の院長だった高田明医師。災害対策本部長として指揮をとった。
本震発生から約4時間半後の午前6時、入院患者310人全員の避難を決めた。
熊本市民病院 高田明院長(当時)
「もう苦渋の決断でしたし、こういう災害とかの時に一番必要な医療を提供しなければいけないのに、自分たちがそれができないのは非常につらかった」
余震が続く中、倒壊の危険がある病棟で医療行為を続けることはできないという判断だった。
熊本市民病院 高田明院長(当時)
「『今はこれしかないんじゃないか』と決断した。『これで良かったのだろうか』という思いは強くあった」
現場の医師も葛藤していた。宮崎花梨ちゃんの主治医だった本田啓医師。花梨ちゃんは、3度目の手術を終えたばかりで、集中治療室での治療を続けていた。ベッドを移動するだけでも命の危険が伴う状態だった。
本田啓医師 宮崎花梨ちゃんの主治医(当時)
「正直動かせる状況じゃない、いわゆる避難できるような状況じゃなかったので、院長先生とお話をして、残ることができないかとか、そういった道もないかという話はした」
しかし、結局、転院を選ばざるを得なかった。
本田啓医師 宮崎花梨ちゃんの主治医(当時)
「例えば透析、腹膜透析をしていたができない状況にあったり、移動しなければ医療が続けられない状況に」
花梨ちゃんを福岡の病院に搬送する際の写真が残っている。エレベーターは使えず、医師、看護師、総出で2階の集中治療室から、階段で花梨ちゃんを救急車へと運んだ。
肺炎などの症状もある花梨ちゃんには、治療用のボンベ(治療用の一酸化窒素ガスのボンベ)や点滴など、外すことのできない医療機器がつながった状態だった。本田医師は、搬送中、花梨ちゃんにずっと付き添い続けた。
本田啓医師 宮崎花梨ちゃんの主治医(当時)
「花梨ちゃんの病状を細かく診ながら、緊張の状況が続いていた。無我夢中というか、この移動というのを安全に続けるために専念していた」
だが、花梨ちゃんへの負担は大きかった。
本田啓医師 宮崎花梨ちゃんの主治医(当時)
「酸素の値とかも下がりますし、病状の不安定さは移動中もありながらも、頑張って安定して維持してくれた。花梨さんの頑張りだった」
5日後に亡くなった花梨ちゃん。訃報は母のさくらさんからの電話で知った。その時の思いは、今も言葉にできない。
本田啓医師 宮崎花梨ちゃんの主治医(当時)
「正直一言では言えない。言葉がちょっと選べない」
“なにもできない無力感” 入院患者310人はその後
花梨ちゃんが入院していた小児循環器内科には当時、心臓などに疾患を抱える18人の子どもが入院していた。
部長だった八浪浩一医師は、ひとりひとり、転院や退院の手続きを進めていった。
熊本市民病院 小児循環器内科 八浪浩一部長(当時)
「混乱してましたね。このまま動かずにいて、崩壊したらどうなるんだと。おそらくみんな思っていたと思う。恐怖だったと思います」
入院患者310人の中で最後に病院を出たのが、花梨ちゃんだった。
全員の避難を終えた時…
熊本市民病院 小児循環器内科 八浪浩一部長(当時)
「呆然としていたというか。やることはやって搬送は終わったが、そのあとは何も考えられなかった。医療従事者として何もできなくなってしまった、無力感が強かった」
医師たちは、避難所を訪れたほか、患者との連絡も取り続けた。本震から12日後、被害の小さかった建物で外来を再開した。しかし、心臓に重い病気を抱える子どもを受け入れられる状況ではなかった。
熊本市民病院 小児循環器内科 八浪浩一部長(当時)
「自分たちがずっと診ていた患者さんたちを診療できる状況じゃなかった。どんなふうにして子どもさんたちを診ていったらいいのか、ものすごくそういうことを考えると不安で仕方がなかった」
入院患者310人はその後どうなったのか。
地震から1年後に市民病院は、追跡調査を行った。転院した200人については、15人が亡くなっていたことが分かり、このうち花梨ちゃんを含めた2人は、転院の影響があったと結論づけた。
だが、この調査には含まれない人たちがいた。退院という扱いで避難した入院患者110人については、今も調査が行われていない。
その中の1人の家族が取材に応じた。
“退院できる状態ではない”けれど…「隠れて見えない」被害者の姿
宮崎市に住む松元智子さん(49)。当時1歳の娘、葵ちゃんは生まれつきの心臓病で、専門的な治療のため宮崎から熊本市民病院に入院していた。
2度の手術を受け容態は回復に向かっていたが、熊本地震が発生。病院から避難せざるを得なかった。
家族の車に必要な医療機器を積み込み、宮崎に戻ることになった。
松元智子さん
「退院できる状態じゃないので、どこに入院したらいいんだろうと。ただやっぱり怖いというのが、熊本地震が起きて、すごく怖いというのがあった。宮崎に帰れるというのは、正直安心感もあの時はあった」
その後、宮崎市内の病院に入院したが、徐々に容態は悪化。地震から1か月半後の6月1日に亡くなった。
松元智子さん
「どうやったら葵を助けることができたのかなと。あの時どう動いたら私は良かったんだろうと、ずっと今でも思ってますね」
智子さんは3年前、ずっと手元に置いていた葵ちゃんの遺骨を納めた。葵ちゃんが亡くなった病院に足を運ぶのはつらく、災害関連死には申請できずにいる。このため、278人とされる熊本地震の死者には含まれていない。だが、今、智子さんは…
松元智子さん
「うちの子は熊本地震の被災者で、被害者だと私は思っている。(関連死の)申請をしていないから、その中には入れてもらえないんだなと改めて感じて。私たちに大切なことをいっぱい教えてくれた年月を無駄にしたくない。熊本地震で亡くなった方は少ないのではないかと思っている方ももしかしたらいるかもしれない。けど、本当は隠れて見えない方たちがいっぱいいるんだよというのは知ってもらいたい」
あの時、小児循環器内科の部長として対応に当たった八浪医師。病院にいた全員が避難せざるを得なかったとしても、一人でも多くを救う方法はなかったのか。今でも自問している。
熊本市民病院 小児循環器内科 八浪浩一部長(当時)
「退院せずに治療を継続した方が良い方も退院してる方はいらっしゃいますよね。葵さんになりますよね」
「うちが赤ちゃんの時からずっと診てる患者さんで、最後までうちで治療をすべき患者さんたちだったと思う。うちでやったからどれぐらい頑張れたのかはわからないが、患者さんもそう望んでいましたし、私たちも震災がなければ最後まで診療させていただいたと思う」
災害時に機能失う病院は今も
熊本地震から3年半後、市民病院は新たな場所で再建された。免震構造に加え、熊本地震では壊れて使えなくなった受水槽も、耐震性を高めた。ヘリポートも新設した。
あの地震では果たせなかった「受け入れる側」としての役割を担おうとしている。
一方で、災害時に病院が機能を失うケースは、今なお起きている。
2025年12月、青森県を最大震度6強の揺れが襲った。
「むつ総合病院」では、地震によって病棟の一部が損壊し、30人を超える入院患者が転院を余儀なくされた。
以前から地震により倒壊する恐れが指摘されていたが、新病棟の建設計画は物価高騰などを理由に、白紙となっていた。
熊本地震で、次女の花梨ちゃんを亡くした宮崎さくらさん。
市民病院でおきたことが、繰り返されてしまったと感じたという。
宮崎さくらさん
「一瞬、市民病院のこと見てるのかなと思ったぐらいだった。でも、ああいうところは多分たくさんあると思う。そうならないようにするためには、病院だけで考えることじゃない。それは国かもしれないし」
新しい市民病院の一角には、さくらさんの提案で作られた花壇がある。
Q.ここからどんなことを伝えたいですか?
宮崎さくらさん
「あそこで何があったとか、たくさんの方が懸命に生きて、頑張っていた。そのことを忘れないように、なかったことにならないように、それがあっての、この新しい病院だから」
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