米ウォール・ストリート・ジャーナル紙の東京支局長をつとめる傍ら、テレビの情報番組のコメンテーターとしてもおなじみだったピーター・ランダース氏。同紙アジア総局のビジネス金融部長に異動し、シンガポールへ転勤となったのを機に、東京支局長時代の10年余りを振り返りながら日本に対する思いなどを綴った。
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覆された日本のテレビ番組への思い込み
年をとると、自分の無知を知る。10年以上前、ウォール・ストリート・ジャーナルの東京支局長として日本に赴任したころの思い込みや妄信が次々と覆された。「日本の良さは何か」の考えも変わってきた。日本を離れ、シンガポールに転勤した今、その変遷を少し紹介したい。
思い込みの一つをいうと、「日本のテレビ番組は世界標準に比べて質が低い、どうでもいいものばかり」と考えていたところ、2014年4月からおよそ月に一回のペースでTBSの「情報7daysニュースキャスター」にコメンテーターとして出演する機会をいただいた。私は番組制作にまったくタッチせず、あくまで放送された内容についてスタジオでコメントする立場だったが、内部の奮闘を垣間見ることができて、いかにストーリー性のある人間中心の話を短い時間で伝える工夫をしているかがわかった。
かわいい小学生のゴルファー、離島に食べ物を配達する業者、歌舞伎座の舞台で活躍したバーチャル歌手…記憶に残る話をたくさん届けてくれた。
ずっと紙媒体だったわが社もビデオ制作に熱心になり、ニュース解説動画を自社サイトとユーチューブに投稿しているが、音楽の効果的な使い方や一秒を競う編集テクニックはまだ習得するところが多い。言葉の壁がなければ、世界の参考になる日本の番組があると思うようになった。
アベノミクス初期に東京支局長に着任
私が1999年に入ったウォール・ストリート・ジャーナル紙は政治と外交、たまには大谷翔平やテイラー・スウィフトまでもカバーする新聞ではあるが、中心は経済、企業、金融の報道。支局長の10年間を振り返って、これらの分野に重きをおく。
雪の降る東京に着いた2014年2月11日、経済低迷が続いたとされる「失なわれた20年」を挽回しようと、安倍首相(当時)が掲げるアベノミクスと黒田バズーカが始動していた。アベノミクス三本の矢の一本目は大胆な金融緩和。2年で2%インフレを達成し、デフレ脱却と持続的な経済成長を目指す日銀の黒田総裁に注目が集まり、私もその政策の理解に腐心した。
当時私は経済学者のポール・クルーグマン氏の信奉者で、社内で「360度評価制度」の一環として部下が私を匿名で評価したところ、「支局長がクルーグマンを引用しすぎている。やめてほしい」との回答がでるほどだった。
「中央銀行が無謀な計画を約束するのがデフレ時代にむしろ効果的」というクルーグマン氏が1990年代末に示した理論に沿って、15年後の黒田総裁が無謀と思われる国債購入計画を進めていた。日銀が毎年80兆円程度の国債を購入し、経済に現金をじゃぶじゃぶ入れる政策で、ハイパーインフレと国債の不履行(デフォルト)を引き起こすと予言する人もいた。
しかし、そうした悪影響もなければ、目立った効果も出なかった。消費税増税が景気に打撃を与える中、焦った黒田総裁がマイナス金利の導入や国債金利のくぎ付けに踏み切る。こちらの効果も限定的。早くもクルーグマン氏が2015年11月、「日銀が自力でインフレを引き起こすのが難しい」と立場を修正した。
途方に暮れた私は日銀のバランスシートを調べたり、お金とは何かを考えたりする中、異端の学者やエコノミストたちにたどり着いた。その一人が知日派のポール・シェアード氏で、彼の“The Power of Money(お金の力)”(2023年、邦訳今年6月出版予定)やステファニー・ケルトン氏の“財政赤字の神話”(邦題、早川書房2022年)を読んで目からうろこが落ちる思いがした。
シェアード氏によれば、国債とお金(例えば私たちが銀行に預けている預金、または銀行が日銀に預けている当座預金)には大きな違いはない。日銀は政府の一部で、当座預金は日銀(政府)の負債だから、黒田バズーカにあったように日銀が一般銀行から国債を買って代わりに当座預金を増やしても、同じようなものを交換しているだけで、大した効果は期待できないという。2010年代に実際に起きたできごとを理論面で支えている。
必ずしも定説になっていないこれら主張の詳しい説明は本や学会の論争にゆだねるが、経済報道を担当するものとして、いくつかの教訓や反省点がある。
日銀の金融政策報道に反省点
支局長を務めた10年間、年に8回ある日銀政策決定会合の報道に力を入れていた。2025年1月現在のように、政策変更が予想される時は特にそうだったが、はたしてそれほどの意味があったのか。
日本の報道機関も日銀の動きに敏感で、日銀総裁の単独インタビューともなれば、大々的に一語一句を分析する。読者や視聴者には「よくわからない組織だけど、どうやら微調整だけでも我々の生活を大きく変えるすごい力のある機関」との印象を与える。こうしたイメージには妄信の部分があるのではないか。
アメリカの中央銀行に当たるフェド(FRB)でも、2022年から大幅に金利を引き上げたのに、大方の予想に反して景気をそれほど冷え込ませなかった。中央銀行報道の在り方に疑問を持つようになった。
財政もそうだ。数年前、大手一般紙の名物編集委員と当時のツイッター上で短い論争になったことがある。財政破綻が間近で早く増税などをしないと大変なことになるんだと不安を煽って四半世紀が経っているのに、その危機はなかなか来ないのはなぜか。来なかった理由をまともに検証しないでやたらに同じ論調を繰り返すのはいかがかと指摘したところ、「警鐘を鳴らすのが記者の仕事だ」という答えが返ってきた。
なるほど、お立場は理解するが、やはり検証が必要だと思う。シェアード氏に言わせると、「国の“借金”は廃止すべき表現。国債を返さなければいけない借金だというとらえ方をすべきではない」。ちなみに、私たちが持っているお札もバランスシート上、日銀(つまり政府)の負債になっているが、一般の人は財布に政府の借金が入っているという感覚はないと思われる。
日本円の国債だから、政府・日銀は国債償還のためにいくらでも円は作れる。過剰に作るとインフレになる恐れはあるので、財政規律を重視する論調も間違ってはいないが、税収が足りないから日本がいずれ破綻するだろうという見方には根本的な誤解がある。もう少し早く気が付いていればよかったと思っている。
以上の著書がすべて正しいとは言わないが、一方のとらえ方しか伝えない日本のマスコミに問題がありそう。「財政健全化への努力を止める余裕はない」(日本経済新聞、2024年12月1日付社説)といった一本調子の論調を何十年も続けていればオオカミ少年と見られるようになり、読者の信頼を失う恐れがある。
一方、日本の年金資産を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)もマスコミに誤解されている部分があると思う。約250兆円の資産を持つGPIFの大きさゆえに、支局長在任中、何回か取り上げたが、将来の年金を支払うために株式と債券の運用益で財源を確保するというGPIFの表向きの存在理由を私も鵜呑みしていた。
しかし、考えてみたら円で支払う年金だから、政府はいくらでも円は作れる。問題は財源があるかどうかではなく、年金で生活する高齢者が受け取った円で生活の必需品やサービスを買えるかどうかだ。GPIFの運用実績にかかわらず、日本の現役世代がこれらを生産したり、輸出で稼いだドルで輸入して調達したりすることさえできれば、大丈夫なはずだ。昨年中、そういう見方もあるのだと気づき、もっと早く記事に反映できればと考えている。
旧安倍派vs財務省 論理の比較・分析を期待
支局長として6年半取材した安倍政権の見方も変わった。消費税増税をめぐって首相が何度も財務省と対立したことをその都度取り上げたが、溝の大きさには十分気が付かなかった。
安倍さんが亡くなられたあとに出版された回顧録には、「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なのです」と安倍さんが財務省を痛烈に批判している。これに対し、「大幅な赤字財政が続いている日本では、財政健全化のために増税は避けられず、(中略)それは国家の将来を思えばこその行動だ」と斎藤次郎元財務省事務次官が反論している(文藝春秋、2023年5月号)。この対立こそ安倍政権を理解する上で鍵を握ると今は思う。
最近の記事に1-2回短く言及する程度しかできなかった。石破政権が所得税の見直しに取り組むなか、財務省の論理と対立する旧安倍派の論理を比較する分析を日本のマスコミに期待したい。
米で日本脅威論が廃れる一方、日本文化に大きな関心
当社も頑張るが、正直に言って、所得税制といった日本の国内問題について、アメリカ人読者の関心が非常に低くなった。日本全体に対する無関心ではない。食べ物、ファッション、映画などについては格段に高くなっている。この真逆の変化が同時に起きていることは偶然ではないだろう。
私が日本に住み始めた1990年代初頭を振り返ると、日本脅威論がまだ健在だった。日本人が働きバチで、アメリカ経済の優位性を倒すために昼夜問わず闘っているイメージだったが、唯一アメリカ人が胸をなでおろしていたのは、「日本人は我々みたいに創造性はなく、過労死がはびこる社会には文明としての魅力はない」というところだった。
「集団性、協調性、画一性を重視する国の体質は、効率的な生産ラインに不可欠である一方で、個人の創造性を抑制し、それに伴って画期的な製品開発をも妨げてきた」とニューヨークタイムズ紙は1980年代に日本を論評した。
今は脅威論がほとんど中国向けで、ドイツ、インドに次ぐ世界第5位の経済規模になろうとしている日本は、半導体材料といった個別分野に影響力が残っても、アメリカ経済全体を大きく左右する力はもはやない。
日本の文化に心を開けるようになったアメリカでは、魅力を感じるところが多種多様に。ウォール・ストリート・ジャーナルだけでほんの一部の例を見ても、ゆず料理、九州僻地の旅行、日本の異質な美術館などについて長文特集をここ数年掲載している。
皆さんご承知のインバウンドブームはその表れ。1990年代日本に住んでいたころ、海外から友達が来ることはほとんどなく、来日した親から「観光客で混んでいるところは避けたい」と頼まれたが、私は「日本にはそういう場所はないから、心配しなくていい」と答えた。
コロナ禍を除けば、2010年代後半から支局長の大きな仕事は海外から来た友達、同僚、お客さんなどをもてなすことになった。この前の年末にエール大学の同級生一家が休暇で日本に来たし、昨年、別の同級生から「高校生の息子は日本が大好きで、夏を東京で過ごしたい」と連絡があり、結局東京の大学研究室でお手伝いすることで夢が実現した。
国力低下も外国人を引き寄せる求心力が強まっている不思議
観光客が日本の一面しか見ていないとはいえ、これだけ日本に惹かれる姿を目の当たりにして考えさせられる。
最初に「日本の良さ」に触れたが、アメリカ人としてどうしても日米比較をしてしまう。日本の平均寿命がアメリカより5-6年長く、そのギャップも広がっている。殺人の発生率はアメリカのおよそ30分の1、医療の皆保険制度や公共交通機関が充実して、おいしい寿司をコンビニで買えることも考えると、一定の収入があれば大変暮らしやすい国だと感じている。自民党が少数与党になっても、政治がおおむね安定していることも大きい。
まわりには、日本のインターナショナルスクールで教育を受けて海外の大学に行った人は「社会人になったら、日本に住みたい」という声を聴く。少なくとも日本にはそういう人を引き寄せる求心力がある。景気低迷が長引いて、国力が落ちていると多くの日本人が感じるなかで、この求心力が強くなっているのが不思議な現象。
年の瀬に一時日本に戻った際、ホンダと日産の統合計画を発表する記者会見に行った。日本で合併発表の会見を何度か取材した経験があり、記者として不満が出そうなところは十分あった。
「救済ではない」という建前論、両社とも圧倒的にアメリカを中心とした海外市場で稼いでいるのに、一人を除いて質問者は全員日本の報道機関の日本人記者。昔ならカチンときただろう。
年月が進んでいるせいか、今回の気持ちはちょっと違った。海外の大手企業社長は記者会見にほとんど応じなくなったので、日本はまだましだと実感したし、「こういう社長会見は日本の伝統的な儀式だ。毎回変わらないのはむしろ尊敬していいんだ」と自分に言い聞かせた。
年末年始にNHKの「ゆく年くる年」を見て、近所の神社で初詣、家族が集まり、元旦に静まり返っている商店街を歩く。この時代に変わらないものに価値がある。35年以上日本と付き合い、最近そう思った。
〈執筆者略歴〉
ピーター・ランダース
1969年 米ニューヨーク州生まれ。
1990年 日本史や日本語を勉強したイェール大学を卒業。翌年、AP通信東京支局記者。その後、経済誌の東京支局長に。
1999年 米経済紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」に入社。本社(ニューヨーク)やワシントンD.C.支局で勤務。
2014年 東京支局長に。日本語に堪能で、TBSテレビ「情報7daysニュースキャスター」やBSフジのニュース番組などテレビ番組への出演多数。
2024年7月 アジア総局ビジネス金融部長(現職)、同年10月からシンガポール在住。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。
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