
1997年、前代未聞の捜査が幕を開けた。戦後最大の「総会屋事件」である。
東京地検特捜部は長年タブーとされてきた裏社会の総会屋と日本を代表する金融機関の癒着の闇に切り込んだ。
伝説の総会屋と言われる小池隆一への大手金融機関からの不正融資。
特捜部は小池側に巨額の資金を提供していた「第一勧業銀行」や四大証券への強制捜査に乗り出した。
「第一勧業銀行」や「野村証券」など、日本を代表するエリート企業への相次ぐ家宅捜索。押収された証拠品は膨大な量に及び、東京地検での参考人聴取や、東京拘置所での取り調べは連日、深夜まで続いた。特捜検事らは平日は役所に泊まり込んだ。
拡大を続ける捜査。特捜部の現有メンバーだけで担うのは到底不可能だった。
特捜部長の熊﨑勝彦(24期)は捜査態勢を強化するため、全国から30人の応援検事を緊急招集。応援検事とあわせた特捜部の検事は70人近くに上り、その陣容はあの「ロッキード事件」や「リクルート事件」をしのぐ規模となった。
あまり知られていないが、一連の捜査で大きな転機をもたらしたのは、特捜部の応援として「第一勧銀ルート捜査班」に投入された31歳の若手検事だった。
押収資料を読み込む「ブツ読み」の中で決め手となる証拠を発見し、さらに関係者から核心に迫る供述を引き出したことで、捜査は一気に前進した。
報告を受けた熊﨑は、日本有数のトップバンク・第一勧業銀行本店への強制捜査を決断する。そして、その先に待っていたのが、政官財を揺るがす「大蔵省接待汚職事件」だったー。
31歳の応援検事はいかにして事件の突破口を見いだしたのか。
どんな思いで歴史的事件の真相解明に立ち向かったのかー
当時の取材記録や関係者の証言をもとに、今だから明かせる捜査の舞台裏を描く。
ある先輩検事との出会い
東京地検特捜部長の熊﨑勝彦(24期)は、総会屋事件の捜査が野村証券など四大証券にとどまらず、第一勧業銀行へと拡大していくことを見据え、検事の大幅な増員を要請した。
人事を取り仕切る東京高検は、全国の地方検察庁をはじめ、東京地検刑事部や法務省などから約30人の検事を応援に投入した。
戦後最大級の総会屋事件に挑む検事は、最終的に70人近くに上った。特捜部を中心に、かつてない規模の捜査態勢が敷かれたのである。
その中に、当時31歳の葉玉匡美(45期)の姿があった。
葉玉は特捜部へ応援に入る前から、のちの検察人生を左右する出会いを重ねていた。
1988年に司法試験に合格、司法修習生を経て新任明けの1993年、福岡地検に赴任する。そこで出会ったのが、特捜部のエースとして名を馳せ、「マムシの善三」と恐れられた佐々木善三(31期)だった。
佐々木は「リクルート事件」などを手掛け、後に特捜部副部長として「鈴木宗男事件」などの指揮を執る。葉玉は駆け出しの福岡地検時代、佐々木の指導を受けながら「特捜検事の仕事の凄味」をその肌で学んだという。
福岡地検で「マムシの善三」の指導を受けた葉玉は、1994年4月に佐賀地検に異動。ここでさらに、自らのキャリアを大きく手繰り寄せることになる先輩と出会う。
この出会いが「第一勧銀事件」そして「大蔵省接待汚職事件」の捜査へとつながっていく。
葉玉の赴任から1年後、佐賀地検の次席検事として着任したのが、大鶴基成(32期)だった。大鶴は前年の「ゼネコン汚職事件」で、収賄側の茨城県知事から自白を引き出すなど、「割り屋」として知られる“熊﨑軍団”の筆頭格だった。
後に特捜部長としてホリエモンの「ライブドア事件」、東京地検次席時代に小沢一郎をめぐる「陸山会事件」などを統括した。退官後は元日産会長「カルロス・ゴーン」の弁護人も務めた。
佐賀地検時代、葉玉の胸に強く刻まれた大鶴とのやりとりがある。
葉玉はある日、ごく普通の交通事故の反則切符の処理について、次席検事の大鶴に報告した。それはレンタカーを借りて唐津のボートレース場に向かっていた男が、他人の車に追突したという事故案件だった。
ところが報告を聞いた大鶴は一言、『これは単なる交通違反じゃなくて保険金詐欺じゃないのか』と指摘した。
葉玉が調べ直したところ、たしかに不可解なことが次々と浮かび上がってきた。追突された被害者の1人が別件で検察庁から取り調べを受けている容疑者で、出頭を拒否していた。
さらに車をぶつけた加害者の男は生活保護を受けていた。生活保護を受給している男がレンタカーを借りて競艇に行くこと自体、不自然極まりない。
「最終的に、大鶴さんの見立て通り、加害者と被害者が裏で通じた自作自演の保険金詐欺だったことが発覚した。このときの大鶴さんの勘の鋭さと捜査センスには、本当に驚かされた」(葉玉)
大鶴の背中を追うように、葉玉は佐賀地検での日々を重ねていった。
動き出した「第一勧銀ルート捜査班」
佐賀地検次席で2年を過ごした大鶴基成は1997年4月、再び東京地検特捜部へ呼び戻される。
熊﨑特捜部長のもと、総会屋・小池隆一をめぐる「第一勧銀事件」そして「大蔵接待汚職」の捜査班を率いるキャップに任命されたのだ。
1996年4月、佐賀地検から東京地検刑事部に異動していた葉玉匡美は、翌1997年春、総会屋事件の捜査が本格化すると、大鶴から声を掛けられ、応援検事として特捜部に投入された。
任されたのは、水面下で密かに進められていた「第一勧銀ルート班」だった。
大鶴は佐賀地検時代から葉玉の粘り強さと、数字や財務資料に強いことを見抜いていたからだ。
葉玉はその期待に応えようと、連日連夜、捜査に没頭した。
実はあまり知られていないが、第一勧銀本店への強制捜査にゴーサインが出る直接のきっかけを作ったのは、この葉玉がつかみとった一通の証拠だった。その一通が、やがて政官界を揺るがす「大蔵省接待汚職事件」の捜査へとつながっていく。
この時期、「第一勧銀ルート班」は、総会屋・小池隆一側に流れた巨額資金の解明を進めていた。
捜査線上に浮かび上がっていたのは、第一勧銀の関連ノンバンク「大和信用」から、小池側に流れたとみられる不透明な資金だった。
その受け皿となっていたのが、小池の実弟が経営する不動産会社「小甚ビルディング」である。だが、実態は小池のダミー会社だった。
小池は、こうして手にした資金で野村証券をはじめとする四大証券の株式を大量に買い集めた。そして、株主総会が近づくと、「株主提案権」をちらつかせて各社を脅し、違法な利益供与を強要していた。
「大和信用」から小池側への融資が始まったのは1992年。
最初の融資額は「30億円」に上った。しかも、担保は一切取られていなかった。
しかし、これだけでは、第一勧銀本体が小池側に違法な利益供与を行っていたとは立証できない。第一勧銀本体と小池側を直接結びつける証拠は見つからず、捜査は壁に突き当たっていた。
「迂回融資」に第一勧銀専務が関与
だが、捜査の糸口となるわずかな手がかりがあった。
第一勧銀の総務部長が「大和信用」に対して、「よろしくお願いします」と口頭で告げていたという。小池側への融資を第一勧銀が口利きしていたとも受け取れる発言だった。
キャップの大鶴は、この口利きが法的に「黙示の保証」とみなせないのか、つまり事実上の「裏保証」と見なすことができないかを葉玉に検討させた。
「黙示の保証」とは、契約書が存在しなくても当事者の言動や置かれた状況から、「保証の意思があった」と認定する法解釈である。つまり、「よろしくお願いします」という一言をもって、第一勧銀が原資を用意することを「大和信用」に保証したと言えるかどうかが焦点だった。
しかし、葉玉は冷静にこう反論した。
「裏保証と言う以上、通常はあくまで“保証契約書”があるはずです。現段階では単に『大和信用』に客を紹介したにすぎないと弁解されるのではないでしょうか」
そこで大鶴は葉玉に新たな宿題を課した。
「第一勧銀が直接関与していたことを示す、動かぬ客観的証拠を探し出せ」
葉玉は動いた。着目したのは「大和信用」そのものだった。業績が極めて悪いことに注目し、同社関係者から参考人聴取を進めた。
「大和信用」は従業員100人ほどの小さなノンバンクに過ぎない。しかも、自らの経営再建すら危うい惨状で、なぜ単独で小池隆一のような総会屋に30億円もの巨額融資を行えるのかー。
どうみても金融機関として信用不足の状態で、いきなり30億円の新規融資を無担保で貸せるわけがなかったのだ。
「僕は商売人の息子だったから、この“30億円”という『商品』を、彼らがどこか別の場所から“仕入れ”しているんじゃないかと考えた。どこから、どのように調達したのかを必死で調べた」(葉玉)
事態は急展開を迎える。意外な事実が浮上したのだ。
葉玉が調べた結果、「大和信用」は、別の優良ノンバンクである『後楽園ファイナンス』から『小池の案件』として話を持ち込まれていたことが判明した。そして、30億円を出していたのは『後楽園ファイナンス』だったのである。
葉玉はただちに「後楽園ファイナンス」の関係者を呼び出し、こう尋ねた。
「なぜ『大和信用』みたいな弱小ノンバンクに、大金を融資したのですか」
葉玉の質問に対して関係者は明らかに動揺し、あわてた様子でこう口にした。
「実は…ある日、第一勧銀の専務さんが直々にやってきて、総会屋・小池隆一の案件を頼まれました。『融資の原資は第一勧銀が用意する。だから、おたくから、『大和信用』に融資してほしい。小池側には『大和信用』から貸し付ける形にしてくれ』と。うちとしては第一勧銀との長年の付き合いがあるので断ることはできませんでした」(公判記録など)
驚くべきことに、小池隆一側への巨額融資において、第一勧銀の専務取締役が30億円の実質的な「迂回融資」を約束していたのだ。
単なる総務部長レベルの「口利き」にとどまらず、経営トップの一角である専務自らが「後楽園ファイナンス」に足を運び、「融資の原資は第一勧銀が責任を持つ」と明言していたのである。
第一勧銀は、「後楽園ファイナンス」と「大和信用」という2つのノンバンクを隠れみのに利用し、裏社会へ資金を「迂回融資」していたのだ。関係者らは、葉玉の事情聴取に対して、第一勧銀の主導による巧妙な「迂回融資」の存在を認めたのである。
特捜部は第一勧銀による事実上の「債務保証」にあたるとみて、色めき立った。
決め手となった「貸付契約書」
葉玉はさらに、カネの流れを裏付ける「物的証拠」の入手に全力を注いだ。それは、ノンバンクから任意で押収した資料の中に眠っていた。
葉玉が見つけ出したのは、三通の「貸付契約書」だった。
「第一勧銀」から「後楽園ファイナンス」へ。
「後楽園ファイナンス」から「大和信用」へ。
そして「大和信用」から「小池隆一のダミー会社」へ。
このうち「後楽園ファイナンス」から押収した資料の中には、「大和信用への融資は第一勧銀が原資を提供する」と記された文書まで含まれていた。
三通の「貸付契約書」を突き合わせると、まったく同じ時期に、同じ金額のカネが動いていた。すべてがピタリと符号した。
「30億円」という「商品」を小池に届けるための資金の流れをたどると、その最初の供給元が第一勧銀でなければ説明がつかない――。
こうして、第一勧銀から総会屋への「迂回融資」は物的証拠によって裏付けられたのである。
「もちろん、契約書には“小池隆一向け”とは一切書かれていなかった。しかし、カネを動かした時期、金額、関係者の供述を突き合わせれば、それが小池隆一側への融資であることは客観的に疑う余地はなかった」(葉玉)
「第一勧銀」→「後楽園ファイナンス」→「大和信用」→「小池隆一のダミー会社」というルート。日本有数のエリート銀行が、裏社会の総会屋への不正融資を隠すために考案した、巧妙かつ悪質なスキームだった。
「大和信用」を使った小池側への「迂回融資」は1992年から4年間で総額「186億円」に上ることが判明。さらに捜査を進めると、「186億円」のルートとは別に、大胆にも小池側に直接「274億円」もの巨額融資を行っていた事実も明らかになった。
二つのルートをあわせた小池側への資金提供の総額は「460億円」に膨れ上がっていた。つまり小池は、自己資金を一切出すことなく、第一勧銀から無限に資金を引き出し、それを元手に資金を増やしていたのである。
捜査関係者は振り返る。
「小池は第一勧銀から引き出した潤沢なカネを元手に野村、大和、日興、山一という四大証券会社の株式を大量に買い占め、大株主へとのし上がった。大株主として『役員解任』などを株主総会で正式に提案できる『株主提案権』を手にする。これを武器に四大証券に『質問状』を送り付けて圧力をかけ、違法な損失補填や利益供与を迫っていた。スキャンダルを恐れる証券会社も、小池の要求を拒むことはできなかった」
断ち切れなかった総会屋の「呪縛」
第一勧業銀行には総会屋利益供与事件の伏線があった。
それは出版社「現代評論社」社長で「総会屋のドン」「政財界のフィクサー」と呼ばれた木島力也と、同行トップとの長年にわたる癒着である。
発端は1969年1月に表面化した「第一銀行」と「三菱銀行」の合併騒動にさかのぼる。
合併に猛反対した第一銀行の井上薫会長が、木島に合併つぶしの協力を要請した。結局、合併は破談となり、2年後の1971年10月1日、第一銀行は日本勧業銀行と合併して「第一勧業銀行」が発足。
井上薫が初代の会長となったのだ。木島は井上のことを「お父ちゃん」と呼んだ。
つまり、木島は「三菱・第一合併潰し」に協力して、井上に恩を売ったのである。“功労者”である木島氏は、大手を振って第一勧銀の経営中枢に入り込む。これが「呪縛」の端緒となったのだ。
第一勧銀の株主総会は当然、木島氏が仕切った。
「京橋に事務所を構えていたことから“京橋の先生”と呼ばれ、恐れられていた。当時の宮崎会長や奥田頭取ら第一勧銀の歴代トップは、重要会議の最中であっても木島から電話があれば、最優先で取り次がせていた」(第一勧銀関係者)
木島は、あの児玉誉士夫の側近を自称していた。「ロッキード事件」をはじめ、昭和の政界疑獄事件で暗躍した児玉は、東京地検特捜部が追い続けた大物フィクサーである。
「戦後最大の黒幕」とも呼ばれた児玉。その名を後ろ盾に、木島は右翼団体や総会屋、さらには企業社会の裏面にまで影響力を広げていった。
その木島の薫陶を受けたのが、小池隆一だったのである。
1985年、木島は小池を第一勧銀に紹介。数年後、小池が第一勧銀に深く食い込む契機となった出来事が起きる。
1988年、株主総会を前に第一勧銀は、麹町支店で発覚した「不正融資問題」に頭を悩ませていた。関西の総会屋が経営陣の責任を追及する「質問状」を送りつけてきていたのだ。
株主総会が混乱することは必至だった。会社側は、スキャンダルが表面化しないよう対応策を探っていた。
そんなとき、関西の総会屋との交渉役を買って出たのが小池だった。
「質問状の件は、まかせていただけませんか」
数日後、関西の総会屋は「質問状」を取り下げた。小池が持つ総会屋人脈と影響力が、第一勧銀にとって窮地を脱する「切り札」となった。
株主総会当日、小池は暴力団「東亜友愛事業組合」を引き連れ、会社側の与党総会屋として総会を取り仕切り、平穏に終了させることに成功した。
ちなみに「東亜友愛事業組合」は、1947年に町井久之が結成した「東声会」を前身とする。町井は在日2世で、日韓の地下水脈をつなぐフィクサー。のちに名称を再び「東声会」に戻している。「東声会」の背後にはもちろん総会屋のドン、木島力也がいた。
この総会を契機として、翌1989年から第一勧銀による巨額融資が開始される。
いったん反社会的勢力につけ込まれ、弱みを握られた第一勧銀は、その後も要求を断ち切ることができなかった。この長期にわたる癒着構造を端的に象徴するのが、のちの辞任会見における近藤克彦頭取の言葉である。
「元出版社社長の大物総会屋からの依頼を断ることができなかった。その死後も同氏の呪縛が解けず、急に対応を変えることができなかった」
まさに、その「呪縛」の主だった木島力也は1993年に死去する。
しかし、その死後も木島が築き上げた巨大な利権と影響力は消えなかった。それを受け継いだのが、小池隆一だったのだ。
第一勧銀という日本を代表する巨大銀行そのものが、小池にとって機能的な「打ち出の小槌」へと変貌を遂げていた。
第一勧銀本店への強制捜査にゴーサイン
第一勧銀では、専務取締役ら経営陣の関与が明らかになったことから、不正は「銀行ぐるみ」だった疑いが一気に強まった。小池側が無担保で巨額の融資を受け続けることができたのは、経営陣の了承と決裁があったからである。
葉玉は当時をこう振り返る。
「『黙示の保証』だけでは、捜査対象は融資のたびに『お願いします』と口利きをしていた総務部長止まりだったと思う。その先の役員までたどるには、誰の指示だったのかを特定するために、さかのぼって調べなければならない。一方で、30億円もの融資枠であれば、当然、第一勧銀の上層部まで稟議が上がる。役員が知らなかったとは考えられない」
さらにこう続ける。
「稟議書には表向きの“きれいごと”しか書かれていなかった。ただ、形式は整えられているが、話を総合的に考えれば、第一勧銀が後楽園ファイナンスに新たに設定した30億円という融資枠は、小池のため以外には考えられなかった」
「迂回融資」に利用された二つのノンバンクにとっても、この案件は極めて異例だった。
経営が安定している「後楽園ファイナンス」が、経営再建中だった「大和信用」に巨額の資金を貸し付け、その「大和信用」が総会屋に無担保で資金を流すーー金融実務の常識から見ても、極めて不自然な取引だった。
事情を知るノンバンク関係者は、事情聴取で口をそろえた。
「あれは気持ちの悪い取引だった」
葉玉は、これまでの内偵捜査の結果をキャップの大鶴に報告した。報告はまもなく大鶴から筆頭副部長の笠間治雄(26期)を経て、特捜部長の熊﨑へと伝えられた。
報告を聞き終えた熊﨑は、即座に決断した。
「よし、これならいける!やっと第一勧銀本店のガサができる」
この一言で、特捜部の方針は固まった。
「特捜部の空気は一変した。『これなら役員まで立件できる』という流れになった。それまで第一勧銀ルート班は大鶴さんと私、もう一人の3人体制だったが、一気に12人に増員された」(葉玉)
もっとも、総会屋事件の一線で指揮を執っていた筆頭副部長の笠間は、当初、第一勧銀本店への家宅捜索には慎重だった。金融市場への影響があまりにも大きいと考えていたからである。
笠間はキャップの大鶴にこう伝えていた。
「第一勧銀自体を立件する前提でなければ、本店への強制捜査には踏み切るべきではない」
当時の状況はこうだ。
特捜部では同じ頃、別の捜査班が「野村証券」の複数の役員を総会屋・小池隆一への利益供与の疑いで逮捕し、まもなく同社のトップ、酒巻英雄社長についても逮捕する方針を固めていた。(のちに起訴され有罪確定)
しかし、「野村証券事件」の関連先という名目だけで、日本有数の大銀行である第一勧銀の本店を家宅捜索すれば、金融業界や大蔵省から「別件捜査ではないか」と強い反発を招くことは避けられない。
だからこそ笠間は、第一勧銀そのものを主体として立件できるだけの証拠を見つけることを、絶対条件としていたのである。
そうした中で、大鶴キャップ率いる「第一勧銀ルート班」の葉玉が、「迂回融資」の実態を裏付ける証拠をつかんだ。それは、笠間が求めていた条件を満たす決定的なピースとなった。
筆者は後年、このときの捜査について笠間に尋ねたことがある。笠間は当時をこう振り返った。
「大型事件では、よく後になって『俺がやった』『俺が落とした』と、声の大きい人だけの手柄になりがちだ。でも、総会屋事件から第一勧銀事件へと捜査を大きく前進させたのは、間違いなく、葉玉くんがつかんだ証拠だった」
その言葉には、若き応援検事への惜しみない評価が込められていた。
すべてが異例の家宅捜索
葉玉の報告から数日後の1997年5月20日午前9時。未明から降り続いていた小雨は、いったん小康状態となっていた。
東京地検特捜部は、東京・内幸町にある第一勧業銀行本店への強制捜査に踏み切った。本店や関連会社、役員自宅など、10数カ所を一斉に家宅捜索したのである。
早朝から日比谷公園に集結していた約100人の検事や検察事務官は、内幸町の交差点を一気に渡り、第一勧銀本店ビルへとなだれ込んだ。
葉玉は、その隊列の前から3番目にいた。先頭に立つのは、「第一勧銀ルート班」のキャップ・大鶴基成。葉玉にとって、佐賀地検時代から背中を追い続けてきた恩師であった。
日本を代表するメガバンクの本店に、東京地検特捜部の大規模なメスが入るーー。それは、戦後の金融史において前例のない、まさに歴史的瞬間だった。
ある特捜部幹部は、当時をこう振り返る。
「金融ビッグバンを目前に控え、大手銀行は総会屋などの反社会的勢力との関係を断ち切るべき時期だった。しかし、金融の中枢に捜査のメスを入れるのは極めて難しく、いわば“聖域”と化していた。その壁を破り、本店への家宅捜索を可能にしたのが、迂回融資を裏付ける決定的な証拠だった」
筆者は当時、司法記者として現場を取材していたが、野村証券に続き、第一勧業銀行にまで特捜部の強制捜査が及んだことに強い衝撃を受けた。
当時、両社はいずれも、大蔵省などと並び「捜査機関でさえ容易には踏み込めない」といわれる“アンタッチャブル”な存在と目されていたからである。
TBSテレビは夕方の『ニュースの森』、夜の『筑紫哲也 NEWS23』のトップニュースでこの歴史的な家宅捜索を報じ続けた。
すべてが異例尽くしだった。
午前9時に始まった捜索は、午後11時半近くになってもなお続いた。14時間半に及ぶ異例の長時間捜索は、特捜部が徹底した証拠収集に乗り出していることを物語っていた。
翌朝のニュースは、特捜部が本店から600箱近くに及ぶ段ボール箱の証拠品を押収したと報じた。
その日から、葉玉は「ブツ読み」の泥沼に没頭することになる。押収した膨大な書類、パソコン、手帳、帳簿、フロッピーディスクなどを、一点ずつ丹念に読み解いていく、気が遠くなるほど地道な作業だった。
最大の焦点は、ただ一つ。
総会屋・小池隆一への巨額融資に、第一勧銀の歴代首脳がどこまで関与していたのか――。
その真相を解き明かす鍵は、膨大な押収資料の中に埋もれていた。
(つづく)
TBSテレビ
ゼネラルプロデューサー/元司法記者
岩花 光
《参考文献》
TBSテレビニュース原稿・アーカイブ映像
村山 治 「市場検察」 文藝春秋
読売新聞社会部 「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
産経新聞金融犯罪取材班 「呪縛は解かれたか」KADOKAWA
熊﨑勝彦/鎌田靖 「平成重大事件の深層」中公新書クラレ
司法大観/財団法人法曹界
・10歳若返る?「ジャパニーズウォーキング」…“1日30分”で1万歩歩くよりも効果的 道具いらずで海外で話題【Nスタ解説】
・40代から増加「脳梗塞」の初期症状は?「倒れてからじゃ遅い」早期発見のカギ「BE FAST」とは【ひるおび】
・「インフルにかかる人・かからない人の違いは?」「医師はどう予防?」インフルエンザの疑問を専門家に聞く【ひるおび】
